誰かの幸せを祈ることは悪いことだろうか?
令和になっても夜神月の話をしたい、膝野まえ(@hizano_mae)です。
少年ジャンプで連載されていた『DEATH NOTE』の主人公・夜神月のことに、今でも『祈り』を抱いています。(この話は何度だってしたい)(サムネイルの画像はイメージです)
夜神月に『祈り』という感情を抱いている
私は夜神月のことが『好き』だ。
でも「私は夜神月が好き」と公言するには、どこか腑に落ちない部分もある。
なぜなら私は、夜神月に対して『好き』よりも『祈り』という感情を、抱えているからだ。
もちろん『好き』という気持ちがあるからこそ、夜神月に『祈り』を抱いている。
けれど、私が夜神月についてどう感じているかを表現するならば、「私は夜神月のことが好き」というよりも、「私は夜神月のことを祈っている」と表現した方が、しっくりくる。
『好き』よりも『祈り』という感情を、彼に強く抱いている。
夜神月にはありきたりな幸せを享受してほしかった
私は夜神月のことが好きだから、彼には幸せになってほしい。
客観的に見て、「夜神月は幸せな人生を送っていた」とは言えないだろう。
デスノートとの出会いによって、世界から犯罪者をなくすために自らが殺人鬼と化してしまって、そしてあの最期。
リュークが「デスノートを使った人間は不幸になる」と言っていたが、まさにそうだと思う。彼の人生は不幸だった。
だが仮にデスノートに出会わなければ、夜神月は退屈な毎日から抜け出せなかったかもしれない。
デスノートがあったからこそ、呆れてしまった世の中を変えようと、彼は自身の生き甲斐を見出せた。
でもデスノートさえなければ?
友達と遊んだり、恋人とデートしたり、そんなありふれた日々を送っていたかもしれない。それが退屈だとしても。
天才であるがゆえの所業を成し遂げるかもしれないが、『普通の人間として』生きる幸せを、享受できたかもしれない。
彼がそれに、幸福を感じることができるかどうかは、わからないが。
少なくとも、『殺人鬼として』生きたせいで、あんな終わりを迎えることはなかったはずだ。それが悲しい。
けれどデスノートがなければ夜神月にはなれない
とはいえ夜神月がデスノートと出会ったからこそ、『DEATH NOTE』が始まるわけで。
デスノートがなければ、私も夜神月と出会うことができなかった。
だから皮肉なことだけど、デスノートは必要なのだ。
夜神月がデスノートを使い、殺人鬼となり、あのような結末を迎えたからこそ、私は夜神月に『祈り』を抱いている。
神のような、しかしただの人間であった彼のことを、今も祈っている。